オレに世界を「切り取る」ことを教えてくれた作家がいる。
正確には意識させてくれた、というべきか。
Víctor Erice/ビクトル・エリセ
スペイン人。およそ10年に1本というスパンで作品を発表している映画監督/映像作家だ(
Malc Cohn といいオレの好きな人はどうしてこう・・・)。
例えば彼の映画「エル・スール(El Sur)」はスペイン北部を舞台にした物語である。タイトルにある南(Sur)は一切登場しない。登場するのは南からやってくるもの、南へ行ってしまうものだけ。
「ミツバチのささやき」では同様に村の外からやって来るもの、出て行くもの。
フレームによって切り取られた空間。だが切り取られたものがフレームの外にあるものを、語られるべきことを常に意識させる。そういう作家だ。
両方とも映画館で何度も観たし、実家にはダビングしたビデオもある。DVDを買いたいが絶版になっていて数万円という値段で取引されている。ていうか再販希望(泣
これ以降オレは何に対しても「切り取る」という視線を持ち込むことになる。バカの一つ覚えみたいに。ちょうど写真家気取りの子どもが両手の親指と人差し指で作ったフレームを覗き込んでみせる。そんな感じだろうか。
例えば、
記憶の中の音 でAMラジオの音について書いた。あのお世辞にもいいとはいえないあの音に親しみを感じるのは、モノラルという「切り取られた」音だからではないだろうか。人間の耳が二つある以上世界はステレオなのだから。
あの音を聴くと、筒に目を当てて覗き込んでいるような、そんな感覚になるのだ。
言葉もそうだ。オレは世界の全てを語る言葉を持たない。
「知らざることは沈黙するしかない」と言ったのはヴィトゲンシュタインだったか。
しかし「知ることに沈黙」すべきときもある。
モヤモヤはいつか形になる - オレがblogを書く理由 - で書いた。「書くべきでないこと」を考えながら削っていく、と。
語るのは、オレの「言葉」だけではないのだ。「切り取る」のは「共有する」ことでもある。
オレの好きな曲Downtown Train/Tom Waitsの出だしに、
Outside another yellow moon, punched hole in the nighttime, yes
という一節がある。
夜を切り取るまんまるな月。その月によって切り取られた空間はどこに続いているのだろう、と思う。
オレにとって「切り取る」ということは「広げる」ことだ。
切り取られた空間の向こう側には地続きに別の空間が広がっている。
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2005/07/23(土) 00:00:00 |
映画/書籍
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Innocent When You Dream/Tom Waitsが使われていた。ビックリ。
2005/06/11(土) 00:00:00 |
音楽
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