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人生は雨の日ばかりじゃない  Ver.2

弱かったり 運が悪かったり 何も知らないとしても それは何もやらない事のいいわけにはならない そんなzak_mustangプレゼンツなblog

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パラオという国

1725e4cf.jpg太平洋上のミクロネシアにパラオ共和国はある。

1994年にアメリカ合衆国の信託統治下から独立した世界で一番若い国だ。
第一次世界大戦後から日本の国際連盟脱退までは日本の委任統治領であり、第二次世界大戦中までその統治は続いた。最盛期には2万5千人もの日本人が移住しており、これは現在のパラオの人口(約2万)よりも多い。
大戦後、独立まではアメリカの統治下にあった。
日本による統治時代(いわゆる日帝ン年)はインフラ、学校教育の整備などの面で概ね肯定的に捉えられており、今日のパラオは非常に親日的な国である。慕っている、と言っていいかも知れない。
公募で選ばれた国旗は日の丸の旗を模した水色(太平洋)地に黄色い丸(満月)。
パラオの人は子どもに日本風の名前をつけることが多いそうだ(ケライさんとかイシドウロウさんという名前の人もいるそうだ)。
パラオの公立高校には選択科目として日本語がある。おそらく世界で唯一つの公立高校ではないだろうか。

こんな話がある。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに…みせかけだったのか
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した…
船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。

島の名はペリリュー島。
民間人を犠牲にしてはならぬという判断により、ペリリュー島民の強制疎開を実施したのだ。
この後上陸した米軍によってこの島の日本軍守備隊約1万は全滅した
日本軍玉砕後にペリリューに戻った島民は、島中に散乱する日本人の遺体を見て非常に悲しみ、放置されていた日本兵の遺体を埋葬してくれたそうだ。
日本式の神社は米軍によって全て破壊されたが、自治宣言をした1981年以降、ペリリュー神社(南興神社)をはじめ、いくつかの神社がパラオ国民によって再建され、戦没者が祀られている。

1995年に独立1周年式典が行われた。各国より祝電が届き、使節が到着する中、日本は、村山政権は祝電すら送らなかったそうだ。日本は礼節を重んじる国ではなかったのか。日本を友好国として慕うパラオ国民の失望と悲しみは想像に難くない。ちなみに10周年の昨年、小泉政権はちゃんと祝電を送ったそうである。これは褒めておこう。小泉GJ。人間、挨拶とかそういうのはやっぱり大切だもんな。

今日パラオの空港があるバベルドアブ島から首都コロールにかかっている橋がある。日本の無償援助30億円と5年の歳月をかけて2002年に鹿島建設により施工された。
名をJapan-Palau friendship bridgeという。

こういう国もあるのだ。
どこかの国に名ばかりのODAで200億円もくれてやるんだったらこういう国を助けてあげたほうがいいな。
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  1. 2005/08/13(土) 00:00:00|
  2. 海外ニュース
  3. | トラックバック:2
  4. | コメント:13

礼儀正しい戦争

時期が時期だけにTVを点けると戦争の特集番組をやっていることが多い。
普段からこういう情報に好んで接しているせいか、局によってはその恣意性にうっとうしくなるようなものもある。
もっとも普段そういう情報に接していない人にはちょうどいいのかもしれない、と思う。

第二次世界大戦、日本は誤った道を歩んでいたという。おおむね異論はない。
しかし、では連合国は正しかったというのか。

人種蔑視に基づく残虐行為

「私は貝になりたい」
有名な話だ。オレは所ジョージ主演のドラマで観た。兵隊にとられ、上官の命令で仕方なく捕虜を処刑した床屋の亭主が東京裁判で戦犯に問われ縛り首になる話だ。
捕虜の処刑を命じた書類がなかった、というのが罪状の決め手になった、と記憶している。当時はアメリカってのは書類のしっかりした国だったんだ、なんて考えていた。

「このことは遺憾であるが必要なことなのだ。なぜなら日本人は野蛮人であり、無慈悲、残酷、狂信的だから」
原爆投下を指示した日のトルーマンの日記に書いてあるそうだ。
広島、長崎の原爆投下は言うに及ばず、東京、それ以外の都市の爆撃も軍事施設の破壊が目的だったのではない。非戦闘員の殺傷が目的、いわば虐殺だ。
爆撃機隊は最初に都市周囲を環状に爆撃して逃げ道を塞いだ後に中央を塗りつぶすように爆撃したのだから。無慈悲で残酷なのはどちらだろうか。

「生きて虜囚の辱めを受けず」
当時はそういう教育だったと聞かされた。でも降伏しても殺されて晒し者にされるなら、そりゃ必死にもなるだろう。明らかにジュネーブ条約違反だ。裁かれていれば、だが。

彼らにとってはきっと日本人は鯨以下だったに違いない。

礼儀正しい戦争などない。そこには正しいものすらいない。
理由など後付けだ。勝ちさえすればそれが正義になるのである。
ただ中にはそれに疑問を呈したものはいた。また礼を持って答えたものもいた。真実を唱えたものもいた。

「翼よ、あれがパリの灯だ」
大西洋横断飛行で有名なリンドバーグはニューギニアで米兵の残虐行為を目の当たりにして苦悩し、上官に異議を唱えたという。

「奇跡のキスカ」
アリューシャン列島にキスカ島という島がある。米軍の包囲に対し、霧に乗じて一人の犠牲者も出さずに撤退して映画にもなった島だ。米艦船は無人の島に砲弾を撃ち込み続けた。そして上陸した米兵は無人の島の山腹で板で作られた粗末な十字架を見つける。それはかつて日本兵が墜落死した米偵察機の乗員を葬った墓だったという。

「全員無罪」
東京裁判でインド代表のパル判事は「第二次大戦以前の国際社会では、一国が他国に対して征服支配し(武力により)侵略することは、犯罪ではなかった。犯罪ではなかったが故に、これまで欧米諸国もアジア、アフリカを(武力により)侵略し、植民地化してきたではないか。戦争が犯罪でないのであれば、なぜ日本とドイツの指導者のみを裁くのか?。戦争に勝ったが故に正義であり、負けたが故に罪悪であるとするのであれば、もはやそこには、正義も法も真理も存在しない。」と判事の中でただ一人全員無罪を主張した。

そして、一方では60年経た今でも懲りないものたちがいる。
その意味で、犠牲者には同情するが、テロリストを単なる犯罪者と断じることをオレはできない。
  1. 2005/08/13(土) 00:00:00|
  2. 日記
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