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人生は雨の日ばかりじゃない  Ver.2

弱かったり 運が悪かったり 何も知らないとしても それは何もやらない事のいいわけにはならない そんなzak_mustangプレゼンツなblog

【追記しました】どこにもいない「われわれ」

佐々木俊尚氏の毎日新聞「ネット君臨」関連のまとめエントリが。ある意味実に佐々木氏らしい結びだと思う。

  新聞が背負う「われわれ」はいったい誰なのか(佐々木俊尚 ジャーナリストの視点)


 
佐々木氏はまず玉木明氏の言葉を挙げる。

玉木氏は前掲の書籍で、以下のように書いている。

ある特定の観点を<われわれ>の観点とみなすこと、特定の主張を<われわれ>の名において主張すること、<われわれ>の意識をある特定の意識の中に囲い込もうとすることを意味している以外ではないだろう。私たちがそこから何ほどかのアジテーション的なうっとうしさ、押しつけがましさ、あるいはイデオロギー的な臭気を感じとるのもそのためだと言っていい。その文脈において仮構されている<われわれ>の意識と受け手の側の<われわれ>の意識とのズレが大きければ大きいほど、私たちが甘受するそのうっとうしさ、押しつけがましさの度合いもまた、それだけ高くなるはずである。


これはオレが以前にエントリ「一人称複数」にて表した想いと重なる。うっとうしいのだ(笑)。
いったい毎日新聞の仮託する「われわれ」というのはどこにいるというのだろう?

かつての平和な戦後の風景の中では、<われわれ>とリアル社会の間には、さほど大きな隔たりはなかったのかもしれない。
(中略)新聞が<われわれ>に仮託して、「大企業は消費者を大切にしていない、けしからん><政治家は信用できない>とステレオタイプなことを書いていても、違和感を感じる人はさほどは多くなかったのである。
(中略)だが一九九〇年代後半以降、戦後社会は崩壊した。かつての平和な風景は消失し、社会の一体感もなくなった。
(中略)いま起きている分断は、単なる意見の対立ではないように思われる。おそらく、意見が拠って立つ基盤そのものが異なってしまっているのだ。


発言者の「立ち位置」にこだわり続ける佐々木氏らしい主張だ。
佐々木氏はバブル崩壊以後の日本の社会の多様化が今日のメディア批判を生んている、と考えているようだ。
しかし、そこで「インターネット」というツールの普及、という重大な事実を見逃しているように感じる。
佐々木氏は「『批判の動機』論」から今日の状況にアプローチしているがオレはむしろ「『手段』の発達」によるものだ、と考える。人々の「不満」や「正義感(これがある意味やっかいなのだが)」そのものはいつの時代もさほど変わらないと思うからだ。

今日のメディア(含新聞)と「われわれ」との断絶は、「われわれ」が記事を検証することが出来るツールを手に入れたことで、記事の嘘や欺瞞に対する検証やその事実を広めることがより簡単にできるようになったことが大きいのではないだろうか。
そもそもインターネット以前には個人が情報を発信する手段は限られていたし、それ以前に、嘘や欺瞞が語られているということ自体に気付かなければ、元よりそれに対する異議を表明することなど出来るわけがないのだ。多くの人がインターネットを通して「メディアの嘘」に気付き、それを広めていった、というのが最も大きな原因だとオレは思う。

もしインターネットがバブル崩壊以前よりあったならば、その社会状態如何に係らずこういった嘘や欺瞞を暴く行為が日常的に行われていたかもしれないわけで、その意味において佐々木氏は「『バブル崩壊』による社会の変化」を過大評価しているように感じる。
しかし、今回の両者に生じた「見解の相違」が、その「拠って立つ」基盤の違い、によるものだということについてはオレも異論は無い。

当たり前のことではあるけれども、どちらが正義でどちらが悪かなどということは、そう簡単に結論づけられるものではない。
(中略)当たり前のことだが、新聞の主張が間違っていることもあれば、ネットユーザー個人の言っていることの方が正しいケースもある。いや、いまやそういうケースが激増していることは、ネットの秀逸な言論を見ていれば明らかではないか。

 だがこの「見解の相違」に対し、新聞ジャーナリズムとして<われわれ>に仮託してきた取材班は、「<われわれ>を背負う取材班こそが、社会の総意にもとづいた正義なのである」ということを主張しているように思われる。

(中略)取材班に決定的に欠如しているのは、その相対性に対する認識なのだ。先にも書いたように、いまや<われわれ>の統一性は社会から失われてしまっていて、どこにも存在しない<われわれ>を主語にして記事を書くこと自体が、不可能になってきている。そのような状況の中では、新聞は<われわれ>に仮託して記事を書くのではなく、(1)自分自身がどのような立場でどう思っているのかという立ち位置によって記事を書くこと、(2)そしてその立場で記事を書けば、当然、意見の異なる他者が出現して自分自身が批判されうること、を前提としなければならなくなってくるように思う。


メディアがしばしば己の「絶対的正義」を振りかざして「結論ありき」の取材/記事化をするのは常々感じていることであるし、オマニー関連のエントリなどでオレが書き続けていることでもあるから、オレ個人としては佐々木氏の意見には全くもって同意だし、ある意味いまさらとも感じる。ただ佐々木氏のようにそれなりの(失礼!)影響力を持つ人がCNETという場でこういう主張をすることは、「周知」という点で価値のあることだろうと思う。

私が前々回のエントリーで、中立の立場を取らず、あえてがんだるふの立場に依拠して記事を書いたのは、そういう新聞に対する批判者の存在があり得ること、いまや新聞言論は相対化しつつあることを、明確なかたちで表出させたかったからだった。


佐々木氏の前々回のエントリに対し「片方の主張に一方的に依りすぎでは」という批判が見られた。
これに対し、佐々木氏はあえてそうした、という。ちょっと後出しジャンケンちっくだと思うが、これは上記の「周知」というオレの指摘に沿うもので、佐々木氏もそういう方向の言論が必要だと考えていたということだろう。
実際、佐々木氏は後続のエントリで完結させることを示唆していたわけで、以前の「『平野日出木さん、本当にそれでいいんですか?』というタイトルの意図」なんかもそうだが、こういうところに佐々木氏の茶目っ気というか経験の深さを感じる。

ただ、上記の「バブル崩壊」の下りや「ネットの秀逸な言論を見ていれば明らかではないか」などの下りはその主張において冷静に例証をするべきであって、前々回のエントリの「郵政解散」の下りなどと同様に、ともすれば氏自身が「決め付けメソッド」との謗りを免れないだろうと思う。
佐々木氏の発言にはときどきこういった部分が見られるので、そこは自戒していただきたい点である。

しばらく前、知人の毎日新聞幹部が、「都市型新聞を目指したって朝日、日経に勝てるわけがない。だったらうちは徹底的に『弱者のための新聞』を目指すしかないんだ」と言っていたことがあった。

(中略)弱者的立場に自分を仮託している毎日社員も少なくないようだが、しかし社会全体の中で見れば、当たり前の話だが、決して弱者ではない。年収で言えば、おそらくサラリーマンの平均年収ははるかに超えているはずだ。そういうエリート的な立場にいる毎日記者という個人としての存在、あるいは全国紙の一角を担っている毎日という新聞組織は、どのようにして弱者の視点に立とうとしているのか。そこの問題が問われているように思える。

 毎日の記者は、おそらく弱者に自分自身を仮託して記事を書いているのだろう。しかしもし、今後も毎日が<われわれ>を背負っていくのだとすれば、その「仮託」そのものが、真正なのかどうか――つまり記者が勝手に想像した架空の弱者ではなく、本当の弱者に常に近づける作業をできているかどうか――という検証を、つねに行っていかなければならない。そうしなければ毎日は「弱者のための新聞」ではなく、「弱者のふりをした新聞」になってしまう。


「最強の弱者」(笑)。
やはりそういう人たちと結託しやすいのは毎日新聞の『経営方針』によるもののようだ。新聞社も所詮は営利企業である以上、オレはその意味では毎日新聞社を責めるものではない。
ただし、その存在意義の一つが「ジャーナリズム」である以上毎日新聞に必要なのは佐々木氏の言うとおり、

「仮託」そのものが、真正なのかどうか――つまり記者が勝手に想像した架空の弱者ではなく、本当の弱者に常に近づける作業をできているかどうか――という検証を、つねに行っていかなければならない。


という姿勢であり、そこに嘘や欺瞞(や見解の相違w)が存在する限り、その記事の『質』に関してはこれからも容赦なくネットで叩かれていくだろうと思う。
メディアにとって、ネットという『牙』を手にした「読者」はすでにかつての「無知でおとなしく御しやすい相手」ではない。ネット万能論をぶち上げるものではないが、安易に手を出せば常に噛み付かれる、という認識がなければあるいは大怪我をするだろう。事実、記者の一部はこうした読者の『反撃』を恐れているではないか。

佐々木氏は最後に、こうした経営方針に疑問を呈する毎日新聞記者の意見を取り上げて結んでいる。
確かにオレが読む限りでも毎日新聞は朝日や東京/中日に較べると記事の論調の幅が広いとは感じている。ある意味まとまりのない感じではある。
毎日新聞に再生の芽があるとすれば、そういう部分からだろうか。

CNETという「メディア」にこうした意見が明文化されて載ること自体は上でも書いたけど「周知」として価値のあることなわけで、いろいろ厳しいことも書いたけど、応援してますよ佐々木さん。



【追記】

「IT弁護士」小倉秀夫先生がご自身のブログで佐々木氏のこのエントリに対して批判的なエントリを上げているようだ。

  匿名ネットワーカーが背負う『われわれ』はいったい誰なのか(la_causette)

「匿名の卑怯者」による誹謗や中傷を糾弾するヒーロー小倉先生的には、実名であれば「ネットよいしょ」などと喧嘩を売ってるとも取られかねない品位に欠いた発言をしても全然OKみたいだね。

小倉先生の主張は、結びの、

他人を不幸にするためにネットを活用することが横行しているときに、そういう負の側面を既存メディアが取り上げることって、そんなに問題ですか?既存メディアは、ネットを「アンタッチャブルな存在」と位置づけ、その暴君ぶりに目を閉じていなければいけないですか?それとも、ネットの匿名さんたちが掲げる身勝手な「俺様ルール」も公平に取り上げてあげないといけないですか?


という部分に集約されていると思うのだけど、佐々木氏はエントリで毎日新聞を含むメディアの姿勢を問うているだけで、別にネットの肩を持っているわけではない。
その経緯など、多少佐々木氏とは認識が異なるかもしれないが、

"これまでは読者との立場が相対化されてなかったし知る手段もなかったので好き勝手出来たかもしれないけど、インターネットのおかげで読者が知ることも主張することも出来るのだから今までのような認識で好き勝手に書いたら読者側から叩かれますよ"

と言っているに過ぎないとオレは思う。

ここで「相対化」されているのはメディアを含む「全て」の言論なわけで、それはネット上での言論についても例外ではない。佐々木氏は「メディアはネットを批判してはならない」などとは一言も言ってはいないでないか。
どうして"ネットを「アンタッチャブルな存在」と位置づけている"などと読み取れるのか正直理解に苦しむ。
例のさくらちゃん募金の

  「さくらちゃん募金」のあり方に疑問を呈する人=さくらちゃんに殺意を持つ人

という持論を掲げて一点突破を図ろうとしているようだけども(笑)。

考えてみれば、かつてお二方のブログはHotwiredで軒を並べておられたわけで、上記のお二方のエントリを読み較べるにつけ、「言論の自由」というか、Hotwiredの懐の深さというものにじーんと感じ入ってしまう冬の夕暮れw。
  1. 2007/02/25(日) 13:00:53|
  2. メディア - マスコミかカスゴミか
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