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人生は雨の日ばかりじゃない  Ver.2

弱かったり 運が悪かったり 何も知らないとしても それは何もやらない事のいいわけにはならない そんなzak_mustangプレゼンツなblog

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2,000エントリ目で人間観

このBlogを開始しておよそ2年と8ヶ月。

 
だいたい平均2エントリ/日てところか。

当然リアルが忙しくなるとエントリも滞りがちになる傾向があるので、どんなクソエントリであろうと、これだけのペースで書き続けられた、という生活のゆとり(ヒマともいう)には、自らの幸運とそれを提供してくれた種々の要素に感謝しなければならないね。

2000エントリを記念してオレの生命観というか人間観を少し。

人間は「万物の霊長」等と称されるけども、オレは殊更特別な存在などではなく、単に「種の維持」を宿命付けられた生物の一つの種に過ぎないと思っている。
そして個人などその維持され続ける種の連鎖のうちの鎖の輪っかの一つに過ぎないのだと。

何故、生物が「種の維持」を宿命付けられているのか、というのはよくわからないが、おそらくそういうものが「生物」として定義付けられ、またその構造(例えば遺伝子情報等)においても「種の維持」活動において必要とされるような能力が与えられているのだと思う。適応に充分な能力が与えられていない種はその時点で淘汰されていくわけだ。

種の維持については一般に、優れた固体(群)の生存が優先されること、(捕食や事故等による個体数の減少に抗する)個体数の増大による一定数の保持、等によって継続される。
何を優れたと呼ぶかは、力だったり容姿だったり声の美しさだったりと種によって異なる。
人間が他の生物と異なり社会性を大きく発達させたのは、おそらく、人間が獲得した能力においてはその方が「種の維持」に関するコストや適応性においてたまたま有利だったからだ。

身体能力において肉食動物に劣る草食動物が群体として捕食者たる肉食動物をしばしば撃退するように、身体能力よりも知能において他の動物を凌駕する人間が、個体の能力頼みでなく、複数から形成される群体(社会)の活動によって、種の維持コストを下げる、というのは納得できる話だ。そして異なる群体(社会、部族、国)同士の接触(交流、戦争等)によって優れた個体(群)が維持される、というのも。

また人間には「種の維持」のために様々な「欲望」が機能として与えられている。生物全般にある三欲(食・眠・性)は言うに及ばず、その他におそらく人類特有の「自己承認欲」「名誉欲」「金銭欲」など。他人よりもっと良く、もっと多く、と願う思いが競争を作り出す。そして、それがこの社会、世界を支えている。

本質的にこの世界は弱肉強食だ。そしてそれは「種の維持」の名の下にフラクタルのように世界>種>群>個と再帰的な構造をとっている。「一は全、全は一」というように。

では、何故(日本のような一部の)社会がその内部においてそのような弱肉強食性を必ずしも全肯定しないのかというと、やはり「社会」自体を維持するコストの問題だろう。弱肉強食によるピラミッドが明示的に形成されれば底辺部に位置する弱者群の不満が増大して治安が悪化し、維持コスト的には高くつく。
それに対し、強者が暴力にてそれらを鎮圧するというのは、古来よりよく用いられてきた手法であり、そのような国では弱肉強食という意識は(日本などより)遥かに強いだろう。

しかし、一応「民主主義」という形態においては、「人権」「平等」というような御旗のもとに弱者の不満をある程度掬い取ることで社会を維持している。「良心」「道徳」というような人間にあたえられた機能との適応性もいい。そこで弱肉強食を全肯定するのは座りが悪いというわけだ。こうした手法で維持コストを下げていく。
ならばその手法がなぜ世界に遍く普及しないかといえば、多分それは種の維持活動において展開される「多様性」というやつなのではないかな。あるいは過渡期なのか。

しかしそれでも、人間の世界もそれ以外の世界同様、原則的に「競争社会(=弱肉強食)」だということに変わりはない。人は運も含めて自分の持っている能力以上のものは得られない。
余談だが「恋愛至上主義」とかってやつもそういう側面から人間社会独特のものとして出来上がってきたのかも。

という風に、「個」であるオレの色眼鏡には「世界」が映っている。
この考えは割と子供の頃から変わっていない。書き出してみて改めて気付いた部分はあるけども。
だから最初に共産主義/社会主義について習ったときにすでにその本質的な欺瞞について気付いてたんだろうと思う。あれは労働者のルサンチマンであり、権力志向者の隠れ蓑に過ぎないと。

ただ、世界が本質的に弱肉強食であり人間が「欲」に支配される存在だからといって、それに賛同するかどうかというのは別の話。
オレは子供の頃は体も弱かったし、むしろ弱者的な存在だったのでコンプレックスも強かった。世界は不公平に満ち溢れている、とずっと思っていたし。
オレがもし南アや北朝鮮あたりに生まれていたら今頃とっくに土の下だろう。
だから、どちらかというと弱者目線だし、人は「欲」に支配されるべきではなく、むしろ理性的であるべきだと思ってきた。その意味においては人類の歴史はなんとも絶望的なものとして映るけども。

誰しも、「世界」を自分の色眼鏡なしに見ることはできない。自分が、(自分自身を含めて)世界からどう見られているのか、ということすら。
その意味においては「世界」は自分の中のみにある。そしてそれは、皮肉なことに自分が見た「世界」から形作られてきたものだが。

そんな中で異なる色眼鏡をもった他人同士がコミュニケーションを取るというのは最大公約数的な共通のプロトコルを手探りで探し出すことに等しい。そして、それは最大限の理性を持ってなされるべき作業だ、とオレは思っている(もちろんコミュニケーションを取らないという選択肢もある)。
そういう気持ちが、自分の中で「人間」は理性的な存在であるべきだと位置づけてきた。
自分における「人間」という存在の位置付けが、コミュニケーションという社会性の基礎の上に成り立っているということに今更気付いて苦笑したけども。
つまりオレにとってもやはり「人間」というのはコミュニケーションをとるべき存在なのだ。多分。

オレは「種の維持」以外に「生命の意味」とかそんなものは無いと思う。ただ綿々と鎖が続いていくだけだ。
ただ、意味を持たせることはできると思う。それは自分の「世界」だから。
オレが「人間の尊厳」とか「自己犠牲」だとかそういうものに熱くなるのは、その行為に自分が意味を見出しているからだ。blogを書いたりとか、そういう自分の行為にも。
オレ自身は人間の「種の維持」自体は実は割とどうでもいい。結果的には貢献しているけども。
その意味では今の自分は余生だと思う(笑)。

オレはこうやってダラダラとblogが書ける現在の平穏な環境に感謝している。
もちろんいいことばかりではないし、なかった。でもそれはそれとして受け止めるしかない。その上で自分に出来ることをすればいい。
そしてそれは誰しも同じこと。自分の「世界」は、自分しか受け止められないのだから。
シマウマがシマウマに生まれたことを嘆いてみても仕方がない。食われたくなければ走れ。ただ走れ。
  1. 2008/01/05(土) 23:00:27|
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