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人生は雨の日ばかりじゃない  Ver.2

弱かったり 運が悪かったり 何も知らないとしても それは何もやらない事のいいわけにはならない そんなzak_mustangプレゼンツなblog

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逃げどころについて

何か「逃げる」話題がホットなようなので、またちょっと書いてみる。
前回はただ「逃げる」ことについて書いたのだけど、今回はその見極めについて。

  逃げ方、避け方、守り方(reponの日記)


子どもの頃から

* 社会には多様な人間関係があること。一つの人間関係に代表などされないこと。
* 人はどこにでも意志さえあれば動くことが出来ること、その意志は育てなければ生まれないこと。
* 世の中には原因の分からない宛先不明の理不尽きわまりない暴力がそこら中に落ちており、時々それにぶつかってしまうことがあって、そのときはそこから逃げること、避けること、自分の身を守ることが大切だと言うこと。
* そして具体的な身の守り方。

などを教えてあげなければいけない。



いじめから逃げることについては以前書いた
上記の件、共感。人の親としてもとてもよくわかる。

また、いじめによる暴力の無罪放免の下りも同感。


何で学校だけ、暴力沙汰を起こしても無罪放免なのだ?
本来なら警察権力による逮捕・拘束だろう。


教師が適切に(体罰も含めて)関係を調整できないのであれば、法の下の裁きに従う他無いように思う。
これはバカ親の不合理な突き上げや、資質不足の教師の不合理な体罰濫用でそういった指導が出来にくくなってるという側面もあるし。
いじめをするような馬鹿ガキをぶん殴って正すのは教師の仕事じゃね?とは思うのだが、一方で、バカ親に育てられた馬鹿ガキをいちいちぶん殴らなきゃならん教師にも同情するしね。

まあ、以前も書いたように、「その」学校だけが社会じゃない、というのを教えてあげるのは大事なことだよね。
単に「逃げ場所」という意味だけでは無くて。自分と社会は1対1ではないと理解するのは大事だと思う。自分がいていい場所はいたるところにあるのだと。

ただ、一方で「踏ん張りどころ」というのもあるのだよなあ。これは経験的に。
例えば上の引用部に関しても「自分の身を守ること」と「他人を助けること」、あるいは「自分の矜持を守ること」とのバランス、というか折り合いなんてとても難しいと思う。
それに世の中ってのはその構成物のほとんどが妥協の産物であって、そこここで折衝・交渉による利害調整がなされている。で、そういった折衝・交渉力ってのはある程度他人と利害のすり合わせをしないと身に付かないのだよね。
そうやって周囲と、あるいは自分自身と折り合いを付けていく、というのは生きていくには否応無しに必要なんだよな。

ただ「世の中そんなに甘くない」とかいうのは半分だけ正解。やたらそう吹くヤツは自分が甘くないのに懲りてるだけ。
甘いところも甘くないところもあるのだ。
甘くないところを生き抜くスキルも甘いところを嗅ぎ分けて逃げ込む感覚も両方必要。

だから、いじめのコミュニティに居続けなきゃならないような、理不尽なことに我慢しなきゃならない理由はこれっぽっちもないとは思うけども、一概に「我慢=悪」と否定はしない。「艱難汝を玉にす」はそれなりに価値のある言葉だと思う。そうすることで理解する痛みもあると思うし。
人の親としても、親がいなくなっても生きていける能力を子供たちには獲得してもらわにゃならんわけで。
強く、逞しく、(そして優しく)というのは生きていく上で基本的に必要なこと。

もちろん、より折衝・交渉の機会の少ない職業・生活に逃げるってのは生活の知恵としてあり。オレが営業でなくエンジニアになったように。人には適性ってもんがあるし。
まあオレは下戸だし人の顔を憶えるのも苦手だから営業になるなんて考えたことなかったが(笑)。

要は逃げどころが重要、ってことなんだろうねやっぱり。その見極めが。
でどんなときが逃げどころなんだろう、って考えてみると、オレはこの文章を思い出す。


  自暴自棄の果てに(徒然はるさん)

私は、あらゆる人脈と取材を通じ、いろんな人に会ったが「意思の力でクスリと決別できる」と主張していた方は、一人残らず廃人になった。
それを言えるのは、クスリを知って 最初の1年ぐらいである。
なぜなら...たとえば、覚せい剤を初めてやった人にとっては、
「え?こんなもんだったの?そんなに言うほどハイになれないじゃん」
ぐらいなもんだ。
だから、やめようと思えば いつでも やめられる...と思ってしまう。
誰も言わないが、覚せい剤の最も恐ろしいところは、この「世間で言うほど気持ちのいいものじゃない」というところにある。
この点を説明してこなかったのは、厚生省も反省せねばならんだろう。

そして...
たしかに、クスリをやめるのは 意思の力なのだが、それは、それまでの人生観を覆すぐらいの「強いショック」がかからないと生じない。
なぜなら、クスリは脳の反応・反射、そして構造そのものを変えてしまう。
たとえ、その人の意思の力を10倍にしても、中期・末期を経験していれば その力は健常者の半分にも満たない。
しかも、それだけではない。
一見、立ち直ったとしても、それを維持するには、人の誠意や情愛や理解がないと、その先 も一生維持できない。

たったひとりの人間が、精神依存・身体依存のある薬物に手を出す事で...
その人を取り囲む、多くの人の「人生」と「愛情」と「努力」を大量に食いつぶしてしまう。


全然関係ない文章に見えるかもしれないが、

たしかに、クスリをやめるのは 意思の力なのだが、それは、それまでの人生観を覆すぐらいの「強いショック」がかからないと生じない。
なぜなら、クスリは脳の反応・反射、そして構造そのものを変えてしまう。
たとえ、その人の意思の力を10倍にしても、中期・末期を経験していれば その力は健常者の半分にも満たない。
しかも、それだけではない。
一見、立ち直ったとしても、それを維持するには、人の誠意や情愛や理解がないと、その先 も一生維持できない。


人の心のありようを変えてしまうのはクスリだけではない。
置かれた状況に「流される」のは簡単で、そこから「逃げる」ってのは意思の力を必要とすることだ。
クスリほどではないにしろ、抑圧によるストレスも最初のうちは「大したことない」かもしれないが度重なれば、人の心、判断力や認知そのものを徐々に変容させてしまう(精神疾患かどうかというレベルの話はおいといて)。
そうなってしまったら「逃げる」なんて意思も判断も働かなくなってしまっても不思議はないだろう。
dankogai氏いうところの、


  逃げ上手は生き上手(404 Blog Not Found)

順番を違えてはならない。つらい現実にいても、それに耐えているだけで自分を変える余裕はなくなる。そうしているうちに、逃げる余力さえなくなってしまう。



てことなんだろうと思う。
そんな状態の人たちに「なんで逃げねーんだよバーヤバーヤ」と言ってみたところで伝わろうわけがない。
そうして心が変容してしまった人はやはり「その人を取り囲む、多くの人の「人生」と「愛情」と「努力」を大量に食いつぶしてしまう」わけで。そんなの見たくないしね。

もっとも「逃げ」ってのは戦術の一つなんでオレは「逃げ上手は生き上手」とまでは思わないけど。
dankogai氏の逃げがたまたま成功だった、ということであって、逃げ続けたからといってそこに待っているのが「地上の楽園」か「野垂れ死に」かは、大雑把にいえばその人の運だろう。理不尽はそこここに口を開けて待ち構えているわけだし。
そういう意味では、逃げが成功したやつが(結果的に)「逃げ上手」なのだ。

とはいえ、大事なのはやはり逃げるか踏みとどまるかの判断なんだと思う。
心さえ大丈夫なら身体が多少不調でもなんとかなるしね。
ま、オレ的な結論は、心を守るために「逃げろ」ってことかな。

しかし正直そんな判断は社会に出たいい大人でも難しい話。
でなきゃこんだけうつ病だのPTSDだのって世間を賑わすこともないだろう。
だからなおさら子供たちには周りの大人たちが「誠意や情愛や理解」を持って接して、必要ならばためらうことなく「逃がして」やってほしいと切に願うのよ。ホント。頼むわ。
  1. 2008/04/08(火) 23:59:16|
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