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人生は雨の日ばかりじゃない  Ver.2

弱かったり 運が悪かったり 何も知らないとしても それは何もやらない事のいいわけにはならない そんなzak_mustangプレゼンツなblog

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それでもモヤモヤするのは

昨日、写真を撮る野次馬やマスゴミと、残る「記録」としての写真について書いた

撮影者の気持ちやら志やらに関係なく「記録」は残り、それはやがて資料となるだろう。
でも。


 
やはり釈然としないものは残る。
自分があそこにいて、撮る存在、あるいは撮られる存在だったらどうだろうかと。

以前アーティストと作品の関係について書いたことを思い出す。

「作品の出来(評価)は作者の人格に左右されるべきでない」

とオレは考えている。作品と作者は別物だ。

だからこそ今回も思うのかも知れないが。
「記録」として考えるとそれは撮影者のモラルという視点だけでは量れないものがあると思う。
それは思うのだけど。

写真、あるいは動画の場合、被写体となる人々がいる。
被写体となる人のことを考えるとなかなか割り切れないものがあるね。
うまく言い表せないが。
  1. 2008/06/12(木) 23:21:06|
  2. WEB/BLOG
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
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コメント

レンズの裏には網膜があり、その後ろには撮影者の脳がある。連続した映像から、脳が選択した一瞬の画像を切り出す。作品の評価と作者の人格は別だけれど、作者の人格が作品に反映しないと言う事にはならない。レンズの後ろの脳が被写体を生命として見ているかモノとして見ているのか。

観念としての死は、現代人にも理解されているが、身体感覚としての死は縁遠くなった。核家族化以前は、3,4世代で各世代10家族ぐらいの親戚と付き合えば、毎年とは言わなくても頻繁に葬式があり、自分の顔見知りが死体になって行く。現代では祖父母4人、大分立ってから、夫婦の両親4人を見る程度だ。食物にしても魚は切り身、肉もスライスかミンチ、海老も頭無しの冷凍では生き物を殺して食してる感覚は無いだろう。生きた海老の頭を毟り取ったり、魚に止めを刺して三枚におろしたりする経験も無い脳がとらえた死の一瞬はどこか無機質でゲームのCGの様に空々しい。その人間疎外が人の本質で理知的な作品と評する向きもあるようだが、どうも納得がいかない。

丸太を組んだ柵と、コンクリートで丸太もどきを作って着色した柵を見たことがある。写真で遠景にすれば違いは無いが、近くで見ればその質感の違いは如何ともしがたい。若者の脳は最早コンクリートの丸太なのだろうか。
  1. 2008/06/13(金) 01:30:02 |
  2. URL |
  3. 阿呆 #mQop/nM.
  4. [ 編集]

>>阿呆 さん
それでも写真は作品としてでなく記録として残っていくんですよね。いや、むしろ残っていくのは記録として純化した、感情をそぎ落とした方かも。

オレが自分が撮られる側だったとして、ちんちん丸出しとかそういうんじゃなければ別にいいかな。
でも自分にとって大切な人がそうされたら許せないと思うけど。
  1. 2008/06/13(金) 21:40:02 |
  2. URL |
  3. zak #S/G8Z6W.
  4. [ 編集]

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