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人生は雨の日ばかりじゃない  Ver.2

弱かったり 運が悪かったり 何も知らないとしても それは何もやらない事のいいわけにはならない そんなzak_mustangプレゼンツなblog

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田沼意次と松平忠信

さっきのエントリを書いてたら、なんか重ね合わせるところがあったので取りとめも無く書いてみる。

 
 田沼意次は元々紀州藩に仕える旗本の出で、九代将軍徳川家重に取り立てられて異例の出世をし、家重、家治と2代の将軍に老中として仕えたが、家治の死によって失脚し東北陸奥の地にわずか1万石の石高で追われ、かの地で没した。

彼はこれまで悪老中として賄賂政治の代名詞のように言われてきたが、実は賄賂政治自体は彼だけではなく江戸時代には習慣的に行われていた。

彼の悪評の多くは政敵であった松平定信派の流布したものともいわれている。
意次の一面を推し量るものとして、仙台藩の伊達重村が賄賂を贈ろうとした際に老中の松平武元は受け取ったが意次は門前払いした、というエピソードがある。
また、意次の没後定信が彼の私物を没収したところ、ほとんど何もなかったそうである。

田沼政治を賄賂政治として激しく批判していた松平定信だが、実は当の定信本人が幕閣への登用を願って意次に賄賂を贈っていた、という笑えないエピソードがある。
また、定信は意次の失脚を仕掛ける際にも幕府の重臣たちに賄賂を贈っている。

意次が老中になって行った主な改革は、

・重商主義:商業を奨励することでそれまでの豊不作によって乱高下する米本位社会から安定した貨幣本位社会に転換しようとした。商人に同業者組合(株仲間)を奨励し専売権など特権を与える一方で税を徴収した。
・貨幣価値の統一:江戸の金と上方の銀のレートに一定のルールを設け貨幣価値を統一し通貨を安定させた。
・予算制度の確立:それまで幕府には無かった「予算」という考え方を導入し施政した。
・海外の新技術導入の奨励:自由な気風で新しい学問である蘭学を奨励。長崎での海外貿易を奨励して海外物産、新技術の導入を図った。
・開拓、干拓事業:蝦夷地(北海道)の開拓、印旛沼の干拓を計画した。
・実力主義:平賀源内など身分に囚われず実力主義による人物登用を試みた。
・大奥の出費を削減:20年間で約1万両を削減。当時大奥の権力は絶大だったのでその出費を削減した意次は相当なしたたか者である。ちなみに他の必要な部門の予算は削っていない。

というように、当時としてはかなり斬新で画期的なものであり、幕府の経済基盤再建に貢献した。
徳川吉宗のいわゆる「享保の改革」を見てきた意次は、質素堅実を重んじた吉宗の改革の経済面が実質的には農民への年貢増に負うものであり、その負担増に耐えかねて一揆を起こす農民や、また乱高下する米相場に頭を悩ませていた吉宗などを見て、貨幣経済に価値を見出したといわれる。
特に商業を奨励して内需を喚起し民衆自体を豊かにして、それに課税することで財政を強化するというアイデアは特筆に価する。武士階級の一方的な搾取でないWin-Winの発想だ。

また、老中になる前の相良藩主時代にも、意次は街道や港の拡張、民家の防火対策、殖産興業など至極まっとうな施政をしており、彼が単なる賄賂塗れの悪老中であったとは考えにくい。

やはりそれらの大部分は失脚以降「政敵によって作られたイメージ」なのではないのかと思う。
実際、現在は彼の再評価が進んでおり、海外でもハーバード大学のジョン・ホイットニー・ホールは意次を「近代日本の先駆者」と評価している。

しかし、これらのかつてない斬新かつ画期的な施策は、意次が出世頭の新参者という嫉妬も重なって、当時の守旧派には不興を買っていたに違いないとオレは思う。

吉宗の孫であり、血統的に将軍になることも夢ではなかった松平定信は、ライバル家斉の父である徳川治斉の意を汲んだ意次によって奥州白河藩に養子に出されたことを深く恨んでいたといわれる。
一説によると定信による意次批判が彼の逆鱗に触れたともいわれるが、当時定信はまだ15歳、元服したての若輩であり、ライバルの意向によって飛ばされたと考える方がしっくり来る。
定信を担いだ反意次派に意次の意向によるものだと吹き込まれていたという可能性はあるが。

意次は傍で見た吉宗の改革をある意味反面教師としたが、、意次を追い落として老中となった「寛政の改革」の旗手である定信は、意次とは反対に祖父吉宗の改革を範とした質素倹約を旨とする重農政策を採り、意次の政策である上記の商業振興策や貨幣統一および開拓干拓事業を廃止し、蘭学者を弾圧した。
また棄捐令(徳政令)によってかえって武士階級の困窮度を深めたのはさっきのエントリに書いた通り。
その先祖返りともいえる緊縮政策の結果、幕府は意次時代に稼いだ財務基盤を食いつぶし、寛政の改革は少なくとも経済的には成功しなかった。
そして強権による思想言論弾圧や質素倹約の強制によって人心は離れた。「白河の 清きに魚の棲みかねて 元の濁りの田沼恋しき」というやつだ。
定信も決して悪いことばかり行っているわけではないのだが、これらの反動政策に関しては「意次憎し」という気持ちが先に出てしまったようにも思える。そしてそれが守旧派の利害と一致した、ということかな。

意次改革の一つのターニングポイントは東北に多数の餓死者をもたらした天明の大飢饉だった。
明和の大火、岩木山、浅間山の噴火、天明の大飢饉と未曾有の災害に相次いで直面した意次はある意味不運だったともいえる。

このとき白河藩主であった定信は領民に1人の餓死者も出さなかった名君と後世に伝えられている。
一方老中であった意次は飢饉に際し東北地方に対して米の売り惜しみをしないよう全国に命令を出している。

しかし、市場の米はすでに定信が買い占めていた。
なんのことはない、定信は買い占めた米で自藩の領民のみを救ったのだ。
意次の意に反して市場の米価格は買占めにより高騰し、その結果白河を除く東北の農村には餓死者の山が築かれた。
意次の重商政策によって相対的に米の価値が薄れたために農民が都市部に流れて農村が荒廃していた、という背景はあるものの、その被害拡大の一因は定信にある。

ところが不思議なもので現在、「名君」松平定信の「寛政の改革」は江戸の三大改革として教科書に載り、田沼意次は「賄賂政治の権化」の汚名を蒙っている。
ちなみに意次の治世は約20年続いたが、定信の改革はわずか6年で終わっている。


オレはこの二人に鳩山由紀夫と麻生太郎を重ねる。

首相就任以降、リーマンショックに端を発する世界経済危機に見舞われて、G20でのIMF主導、国内経済対策法案と矢継ぎ早に経済振興の対策を打ち出し、その最後まで経済政策に打ち込んで一定の成果を上げるものの、法案審議拒否の民主党や、バー通いや読み間違い、選挙先延ばしなどマスコミの印象操作に足をひっ張られ続け、終いには団結すべき自党の中川秀直や武部や塩崎にまで足を引っ張られ、その政策の正当な評価を受けずに、国民の低評価の中辞任した麻生元総理。
彼は、人は儲けて栄えることには自ら動く、ということをよくわかっている商人的感覚を持ち合わせた政治家でもある。

一方、クリーンだセレブだとマスコミに持ち上げられるが故人献金疑惑が発覚し、麻生政権の政策を否定して中小企業支援予算を停止し、完成間近の八ッ場ダムなど公共事業を盲目的に否定し、徳政令を唱え、CO2削減で企業の倹約を唱え、言論弾圧機関の設置を仄めかし、その実財源は国民の負担増である鳩山由紀夫とその政権。
郵政や社会保険庁の再国有化主張などは先祖返りともいえるし、民主党が自民党旧田中派の吹き溜まりであることを考えると、ある意味守旧派といえないこともない。
「国民の生活が第一」などと嘯いているが、彼らにとって第一なのは自分たちの理念と利権とメンツである。

また、麻生政治について「歴史の評価は得られるであろう。」という評があるのは実に興味深いと思うところだな。


ところで、意次の地元相良(現在の牧の原市)の銘菓に「ワイロ最中」というのがあるのをご存知か。
こいつは洒落が効いてていいな、と思った。
こういうの大好き。ぜひ一度食ってみたいわー。
  1. 2009/09/21(月) 21:37:58|
  2. 国民が選んだ政権です
  3. | トラックバック:1
  4. | コメント:2
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コメント

定信が意次の政策を否定した例としては、意次が作らせ歓楽街として賑わっていた両国橋そばの中洲新地の埋立地を、店を取り壊すだけでなく埋立地そのものまで潰して無くしてしまった事も挙げられます。

さらには意次の子・意知が賄賂を拒絶された逆恨みで佐野善左衛門に刺殺された際に民衆が「佐野大明神」と呼んで崇めたというのも示唆に富んでいると思いますね。
  1. 2009/09/21(月) 23:13:41 |
  2. URL |
  3. あ #HfMzn2gY
  4. [ 編集]

>>あ さん
>定信が意次の政策を否定した例
定信の改革はある意味私怨と守旧派の結託という感じですね。
意知刺殺は、佐野が恩を売るために出自の定かでない田沼家の系図捏造を持ちかけたところ、出自に興味のない意次に相手にされなかったこと、田沼親子に賄賂を送って昇進を試みたが果たされなかったことを逆恨みしたんですよね。
ただ明和の大火後、天明の飢饉中の荒廃時で民衆の不満も高まっていたでしょうから、失政や定信派の流布する悪評とも相まって意次の評判はかなり落ちていたのでしょう。ちょうど選挙直前の麻生内閣の支持率のように。
何故か世界不況までまるで麻生さんのせいのように語られたりしてますから。
おそらく彼らも「いっちょ定信にやらせてみっか」という感じだったんでしょう。
  1. 2009/09/22(火) 00:08:18 |
  2. URL |
  3. zak #S/G8Z6W.
  4. [ 編集]

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